ここにキスのお題

1. 伸びた前髪
2. 熱い額
3. 涙の瞼
4. 冷えた頬
5. 隠れた耳
6. 甘い唇
7. 密やかな項(うなじ)*
8. 痩せた鎖骨
9. 華奢な指
10. 広い背中

>>> COUNT TEN.






*


1. 伸びた前髪

やたらとスキンシップの好きな男なのだ。ディーノは。
雲雀にもよく接触してくるし他の人間に対してもまた同じく。後者に関しては目に付き次第制裁を(ディーノに)加えているから問題ない。思い出しても少しだけイラッとするくらいだ。…本当に少しだけ。
そんなわけで今日もあらゆる垣根をあっさり超えたディーノが雲雀の髪に触れている。
これくらいで一々咬み殺していたらキリが無いと雲雀は重々心得ていたので、不機嫌な顔をしつつも好きにさせている。別に気を許しているとかそういうわけではない。
ディーノの長くて骨ばった指がするりと髪を滑る。
雲雀は髪の先にまで感覚がなくて良かったというようなコトを遠くで考えていた。
「いつまでそうしてるの、アナタ。」
「恭弥の髪はさらさらしてて気持ちいいな。」
…ちっとも話を聞いていない。
雲雀は思いきり眉を顰めてみたが効果は無かった。何せ相手はディーノだ。この程度でへこたれるような男だったらそもそも今この場にいないだろう。
「結構伸びたよな。」
「そう。」
「お前なぁ…自分のコトなのにそんな。」
「髪が伸びるのは当然だし、そもそも僕の髪が伸びようがアナタには関係ない。」
ばっさりと切り捨ててやると目の前の大人は少しだけ情けない顔をして、そうだけどよぉ、と。唇を尖らせている。…雲雀は今真剣にアナタいくつなのと問いただしたくなった。
大型の犬がすねているような様子だったディーノは、しかしそれをすぐに苦笑に変えて『お前らしい』とそっと呟いた。
雲雀の髪の毛先を弄びながら。
…アナタだって、と。雲雀は心の中で静かに思う。
ディーノの髪も雲雀と違わず伸びた。多忙な人だから切っている時間が無いのかもしれない。
いや、こうして雲雀の髪を弄る時間はあるのだから、単純に伸ばしているだけなのかもしれないし切るか考えている途中なのかもしれない。
どうでもいいけどと雲雀が思うのを他所に、しっかりと記憶が積み重なっていっている。
とりあえずディーノの髪がどれくらい伸びたのかがはっきりと分かる程度には、雲雀はディーノのコトを認識しているし記憶している。
僕の頭が良すぎるせいだね。
これは別にディーノだからというわけじゃなくて、ただ単に自分の記憶力がいいだけの話。
雲雀はそう思っている。
ふと感じた髪の匂いがいつもと違うとわかったのだってそういうコトだ。
ディーノが特別なわけではない。決して。
だからそれら全てを雲雀は敢えて口にはしない。ディーノのように表に出す気などさらさらない。
全ては当然のコトでわざわざ話にする程のコトではないのだから。
「切らねぇのか?」
「さあね。」
「…どうせ『アナタには関係ない』って言うんだろ。」
「わかってるじゃない。」
そもそも切るか切らないかなんて考えてなかったのだし。
しかしディーノはどうせ、と言いながらも拗ねてる表情をしているのだから始末に終えない。
わかってるなら言わなければいいのだし、予測出来てるのなら気落ちするコトもないだろうに。
「ま、切っても切らなくても男前には違いねぇか。」
からりと笑う。もう拗ねている様子はどこにもなかった。
雲雀は本気で呆れてしまった。本当にこの男は何なのだろうか。
どうでもいいけど、と。そう思いながらも雲雀はそこから動かない。雲雀の髪をするりと滑る指を淡々と見ているだけだった。
「触り心地がいいのも変わんないんだし、な。」
そうしてディーノは指で撫でるようにあっさり、本当に何かのついでのようにあっさりと雲雀の前髪に口付けた。
ふわりと羽のような口付けは、額にすら届かない。
雲雀はこの時真剣に伸びた前髪を呪った。
髪先に落とされたそれは短かったら届いたかもしれないのだ。雲雀の額に。
ディーノの桜色の唇はもうすっかり雲雀から離れていてやんわりと笑みを刻んでいた。憎たらしい。
髪先にまで感覚があれば良かったと眉を顰める。
そうして仕返しに、今度会う時までに髪を切っておこうと心に誓った。


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2. 熱い額

雲雀は断固として認めなかったがどう見てもフラフラしている。
顔色が普段と変わらないのが不思議なくらいだ。
さっき触れようとして思いきり叩き落された手。ディーノを叩いた手はしかしいつもよりは力が無く、一瞬しか触れなかったが常のひんやりとしているそれではなかった。
熱があるんだろうな。
雲雀はソファの上に身を寛がせながら何か…恐らく書類だろうが、束ねられた紙を見ては淡々と捲っている。そうしていると上体が時折ふと傾く。その度にディーノは手を出しかけては思いきり叩き落されていた。
警戒心の強い野良猫の子供のようだ。
ディーノもディーノで例え敵意剥き出しでもそんな仔猫が放って置けなく、何度引っ掻かれようと次もまた手を出してしまう予感がある。
何度も叩かれた手をもう片方の手で撫でる。
当然痛いのだが、多分もっとキツイのは雲雀の方なのだろう。そう思っているのでディーノは叩かれても苛立ったりはしなかった。ただこれ以上無理はしてほしくない。
「きょ、」
「それ以上何か言ったら咬み殺す。」
早い反応――…いや、早すぎる反応だった。
神経過敏になっているのだろうと結論付けていたのだが、先程からどうにもディーノに対する態度のみが俊敏であったコトに漸く気がつく。
そういえば一度だけ、雲雀に手を出そうとしたのではなく、本当にただ手を少し動かしただけで引っ叩かれたコトがあった。雲雀が不条理なのは今更だったし、前述した通り過敏になっているのだろうと思っていたから気にしていなかったのだが、今思えばさすがにあれも早すぎる。
雲雀は書類を無表情な目で見ている。
時折気づいたかのように捲っては目で追っている。
…機械的過ぎる。
いつもなら欠伸をするだとか眉を顰めるだとかしているのだ。雲雀は。
これは、
「…恭弥。」
「咬み殺されたいみたいだね。」
出した手は案の定叩き落されたが気にせず距離を詰める。
もう一度叩かれたが気にしない。雲雀がここで漸く眉を顰めてディーノを見た。
咬み殺される覚悟で雲雀の額に唇を落とす。
「………何。」
…今度はどこも叩かれなかった。
ディーノはホッとして『甘えてるんだ』と笑う。
「甘えていいか。」
「嫌だよ。」
「だろうな。」
雲雀は、
ディーノばかりに意識を集中していた。
常ならそれこそ均等に、どこで何が起こっても即座に反応出来るように神経を張り巡らせている雲雀が。
それがどういうコトなのかディーノは敢えて触れないで蓋をする。
「そんなんばっか見てねぇで俺に構えって。」
「アナタと仕事だったら間違いなく仕事を取るよ。」
雲雀は後日再び目を通すであろう書類を見ながら、ソファの隣に滑り込んできたディーノを追い出さない。そもそも本当に煩わしかったら強引にでも立ち去らせるのが雲雀なのだ。
「キスしていいか。」
「嫌だよ。」
そう言いながらも雲雀は書類から目を上げてディーノを見るのだからどうしようもない。
もう一度額に唇を落としてやると、何でそこなの、と。どこか不服そうに雲雀が呟いた。
呟いてから今度はディーノの額に同じように口付けてくる。
鼻先で前髪をよける様が本当に仔猫のようで、恭弥は野性的なんだなと論じれば、僕はいつでも理性的だよとディーノの額に歯を立てる。
いつの間にか体ごとくったりとディーノに預ける形となった雲雀は、首筋に顔を押し付けて、
「いい寝床。」
熱い額を肩口に乗せた。


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3. 涙の瞼

泣き腫らした瞼に口付ける。
怖い夢を見たと泣いていた。
クスンと鼻を鳴らす様はとても同年代とは思えなかったが、しかし全く違和感が無いのだからディーノはすごい。褒め言葉になっていないがその通りなのだから仕方が無い。
そんなディーノを雲雀は好きなのだから仕方ない。
「もう寝たの。」
指どおりのいい、金色の髪を撫でながら問えば、
「―――…まだ。」
閉じていた目を薄く開きながらディーノが答えた。
じわりと涙がまた滲んできていて、今にもまた零れ落ちそうだ。
雲雀はディーノを泣かせるのも啼かせるのも好きだったが、こうして目の前にいる自分以外の何かに怯えている様は好きではない。
アナタは僕にだけ泣かされていればいい。
ふたりきりのベッドは周りの時間を全て置き去りにした牢獄のようだった。
実際それはあながち間違いではなく、雲雀はディーノを捕らえていたしまた捕らわれていた。搾取するのはいつだって雲雀の方だったが、ディーノも雲雀の大切なところを根こそぎ浚っていってしまっている。お互い様、そういった関係だった。
「そんなに怖い夢だったの。」
「……怖かった。」
そして悲しかった、と。
ディーノはそう言って雲雀に擦り寄る。
頬を優しく撫でてやれば少しだけ表情を和らげた。何も知らない幼子そのものだった。
「…みんなが幸せそうに笑ってるんだ。何がそんなに楽しかったり嬉しかったりすんのかはわからなかったけど、兎に角幸せそうだった。そん中にはキョーヤもいて、」
でもオレだけいなかった。
堪えきれなかった涙がひとつ零れた。
「それが哀しかった?」
「……オレは、みんなが幸せならそれでいいって、思っているのに。心のどこかに自分がいないのに幸せなのが許せないって、そう思う自分もいた。」
それが堪らなく嫌で怖くて哀しかった。
そうして目元を両手で覆ってしまう。
ディーノの中に己への不信感と恐怖が渦巻いているのが知れた。
雲雀は満足気に息を吐いた。
「そんなの、当たり前の反応じゃない。とても人間らしい。普通のコトだよ。」
謳うように言い聞かせながら殊更優しく頭を撫でてやる。
ディーノの肩が緩く震えて窺うように雲雀を見た。ゆったりと笑みを刻む。
「でもオレはそんなの嫌だ。そんな風に思う自分がすげぇ嫌だ。」
「何で?アナタが幸せじゃなくちゃ幸せじゃない人もいるじゃない。」
綺麗事と哂う者はここにはいない。
「周りのコトばかり考えるのも、悪いとは思わないけどね。…アナタはもっとアナタのコトを考えてもいいと思うよ。」
雲雀は嘘も得意だった。
「十分考えてる。」
「だったらまだ足りないんだね。お人よしなのも嫌いじゃないけど。」
そう言って優しく口付ける。額に、瞼に、頬に、唇に。
ディーノは気持ち良さそうにその身を預けている。
可愛いね。
ひどく満ち足りた心地でうっとりと雲雀は目を細める。
今ここに横たわっている、雲雀のよく知るディーノが遠い昔に幼さと共に捨て去った『自分』という感情が堪らなくいとおしい。
ディーノの幸せは常に誰かのためにあった。
雲雀は、それが不快で堪らなかった。
彼が自分に好意を抱いているのは本能的にすぐにわかったが、しかしディーノはすぐさまそれに蓋をしようとしたのだ。自分勝手な大人の尺度で。
理由なんてくだらないものばかりだ。例えば彼のファミリーのため。例えば雲雀のため。
当然そんなものを許す雲雀ではない。
だから打ち壊した。それだけのコト。
ディーノが自分の一番の幸せを考えるのであれば、間違いなくそれは雲雀と共にあるのだから。
アナタはもっと僕のコトを考えてもいいと思う。
雲雀は自分勝手な子供の尺度でディーノの体に触れていく。
早くめいっぱい乱してしまわないと。
唐突に湧き上がった衝動を止める者もいない。時間は限られているので早々に行動に移すことにした。…そう、時間は限られている。

夜が明ければまた、自分を置き去りにしたディーノになってしまう。
そうなる前に出来るだけ乱れさせて、出来るだけ愛を吹き込んで、打ち砕いてしまうのだ。
少しずつ少しずつ変わっていく、変えられていくコトに彼が気づかぬ内に。密やかに。
早く自分だけのディーノになればいい。
貪る様に口付けながらそんなコトを考える。


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4. 冷えた頬

すっかり冷え切っているであろうコトがわかっても雲雀は決して手を出さない。
「何をしているの。」
ディーノがそこにいるコトに気づいてから30分きっちり経った後、漸く声をかけた。
何気ない風に。出来るだけ冷たく。
「…夕陽を見てた。」
ちら、と。雲雀も日が落ちていく様を見やる。
ディーノが立っているのは応接室の窓の外の死角。屋上ならまだしもお世辞にも見えやすいとは思えない。実際木々や建物に邪魔をされて見辛かった。
嘘をついたね。
すぐにわかる。
そもそも30分前はまだ日が沈んではいなかった。
それでも雲雀は気づかないフリをする。
「ふぅん。」
そうしてディーノは雲雀の嘘に気がつかない。
ひどく緩慢な動作で雲雀の方に向き直ると、ゆうるりと笑顔を浮かべた。
「元気そうで良かった。」
「そう。」
返答は出来るだけ素っ気無く。
ディーノは苦笑するだけだ。諦めのような表情だった。
彼が喋る度に白い息が浮かんでは消える。ストーブで十分に暖められた応接室の中にも窓を開けた途端、冬の、冷たくて乾燥した空気が流れ込んできていた。
風邪をひくよ、とも、雲雀は決して言わない。
ディーノが寒がりなコトを知っている。知っていて、だがそれすらも知らないフリをする。
「また日本に来てたんだ?よほど暇なんだね、アナタ。」
実際はそんなコトはないのも承知だ。
「……そうかもな。」
静かに笑みを刻んでいる。
出会った頃に浮かべていた陽気な笑顔でも、武器を交える時の好戦的な笑顔でもない。
ぬるま湯のような笑顔だった。
雲雀を温かく包むでもなく、冷たく誘いかけるものでもない。
ただ只管、どうしようもない。そういう風に浮かべているような物悲しい笑顔だった。
「恭弥は相変わらず忙しそうだな。」
「アナタと違ってね。」
仕事なんて1時間前には終わっていた。
それでも暖かい応接室にいたのは、彼が今日本に来ていると聞いていたから。
どんなに忙しくてもこっちに来る機会があれば、ディーノは必ず雲雀の元を訪れていた。
それがわかっていたから。
「もう終わったのか。」
「まだだよ。空気を入れ替えようと窓開けたら、不審者がいたものだから。」
「ひでぇな。」
雲雀は中に入れとも言わない。
ディーノも、入れてくれとは言わない。
「日が落ちると、あっという間だよな。すぐに暗くなる。」
あっという間だ。
日が沈んだ先を見ながらそう言うディーノを雲雀はそっと見ている。
冷えて、陶器のように固まっていそうな頬だと思った。
緩く浮かべ続けている笑顔も、元々そういうカタチに作られていてそこに在るだけと言うような。
この笑顔も見慣れてきた。
小さく傷つき続けて、それでもどうしようもなくて笑うしかない愚かで悲しい大人の、凍りついて壊れそうなガラスのような笑顔だ。笑顔というカタチで心の最後の部分を守っている。
こんな表情をさせているのは自分のせいだと、雲雀はキチンとわかっていた。
わかっているからこそ雲雀は冷徹になれる。
「暗くなって道がわからなくなる前に早く帰ったら。」
「お前はセンセイをもうちょい労われよなぁ。」
ディーノを小さく傷つけ続けているのも、
「誰がセンセイ?アナタなんか僕にもう関係ない。」
「言うと思った。」
心の繊細で弱い部分を押し開いていっているのも、
「…僕は仕事に戻るよ。」
「ああ。」
全ては雲雀がディーノに心を傾けているからこそ。
寂しそうに笑う青年は心から雲雀と別れるコトを惜しんでいる。
ただの笑顔にも見えるのだが、雲雀にはわかる。
雲雀にだけはわかる。
「アナタも遊んでばかりいないでちゃんとしてなよね。」
「わかってるって。」
それだけ雲雀はこの男を見続けていたから。
「…そんじゃあ、元気でな。」
名残惜しそうなのに去り際はあっさりとしている。
意識して後腐れの無いように装っているのだ。だからこそディーノは『またな』と絶対に言わない。
いつでも離れられるように備えている。
雲雀は答えもせずに窓を閉めて背を向けた。

5分ほどしてから振り返ってもう一度窓を開ける。
薄暗い外にはもう異国の青年はいない。
身を切るような寒さがそこにあった。
雲雀は上着も学ランも羽織っていない格好のままで窓からの冷気を浴びる。
ディーノの残り香を感じるように、大きく息を吸った。

『恭弥。』
『オレ、お前が、』

言葉は当の昔に貰っていた。
雲雀はずぅっと答えもせず、強い拒絶もせず、ここまで来ている。
だからこそディーノは身動きが取れない。それを理解していて雲雀はディーノには触れようとしないでいた。出来るだけ冷たく、甘い言葉など吐かない。
……どこまで許されるのだろう。
雲雀はディーノをずっと試し続けている。
アナタは僕を、どこまで許すの。
半ば諦めながらも雲雀の元を訪れるディーノ。
…雲雀のためだけにその身を凍えさせて、頬を白磁のように白く凍りつかせていた青年。
「馬鹿だね。」
いとおしくて仕方が無いのに。
ディーノが先程まで立っていた場所に手を伸ばす。
彼とは正反対の、切るような冷気ばかりが雲雀の手に、肌に。
「どうして無理やりにでも口付けて来ないの。」
そうすれば雲雀もディーノを抱き寄せられると言うのに。
陶器のような頬に手を滑らせるようにそっと、優しく虚空を撫でる。
白くて綺麗なそこに何度も口付けて思いきり溶かしたいと思うほどに雲雀はディーノに熱を抱いている。ずっと。冷えた体に己の体温を流し込みたい。
それでも、
(アナタが下手な優しさで僕に接する限り、僕はアナタに触れたりしない。)
自分の心よりも理性とか雲雀の気持ちとかを優先させている内は、まだ。
だから早く口付けてくればいい。

雲雀は、雲雀だけの冷たい頬を思い描きながら、そこにあった体温を夢想して静かに口付けた。


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5. 隠れた耳

雑音が多すぎるんだ。
ディーノの自室の、質の良い大きなベッドの上に寝そべりながら雲雀がそんなコトを言う。
勝手知ったる何とやら。ディーノが部屋を空けている隙に入り込んだらしい少年は勝手に入ってきただけに飽き足らず、勝手にシャワーを浴び、勝手にディーノの服を漁り、勝手にそれを身につけ、そうして今は勝手にベッドを占有している。
髪がまだ少し湿っていた。
乾かしてやろうか。ドライヤーを取りに行くか考えあぐねていると、それを汲み取ったのか偶然か。どうでもいいから早くこっちに来なよ、なんて。まるで我が物顔でディーノを手招きする。
雲雀の体躯ではまだディーノのそれには及ばないため、袖を通した白いYシャツもだいぶ大きかった。袖を折るのも面倒くさいのかダボついたシャツの袖からは指先が小さく覗いている。
「…そっち行きたいのは山々だけどな。まだちょっと仕事が残ってんだ。」
手にしていた書類をソファに放ってその隣に座る。
雲雀は思いきり癇に障ったようであからさまに顔を顰めた。
常々この子供には甘すぎるくらいに優遇してしまっているので、それに慣れてしまっているのかほんの少しでも意にそぐわないコトをしでかすとこんな感じになる。苦笑するしかない。
今だって十分甘やかしているのだ。
勝手に進入してきたコトも私物を拝借されているコトも、何一つ咎めたりしていない。
しかし雲雀にしてみればそれこそが当然であるのですぐ機嫌を損ねてしまう。
「少しだけだから待ってろって。」
「ヤダ。」
書面に目を通し始めたディーノに雲雀はつまらなそうに頬杖をつきながら足をばたつかせている。そうしてシーツをぐしゃぐしゃにしているのは絶対にわざとだ。
「恭弥。」
「折角会いに来てあげたのに。」
恩着せがましい物言いはしかし確かに事実でもある。
ボンゴレの守護者である雲雀はボンゴレのボスであれ他の守護者であれ決して靡こうともせず、行き先は誰にも明かさない。
時折ふらりと現れては殺戮を楽しんでまた去っていく。
その先は専ら彼のアジトだが、気まぐれにこうしてディーノの元を訪れたりもするのだ。
ディーノは誰にもそれを話したコトは無かったがどうにも感づかれているのか、遠回しに雲雀への言伝を頼まれるのも珍しくない。今回も例に漏れず、
「そういや今度ボンゴレ主催のパーティーがあるの知ってるか。」
「知らない。どうでもいいもの。」
「オレも呼ばれてんだ。」
「……ふぅん。」
こう言っておけば8割がた雲雀も(人の多いパーティーではさすがに表立ってでは無いにしても)来るだろうコトを知っている。もう2割は…まぁ、この後のディーノの頑張り次第である。
「新しいスーツ買ってやろうか。」
「いらない。」
「そっか。それなら、」
「余計なコトばかりしか言えないの、アナタ。」
音も立てずにディーノのいるソファまで来ていた雲雀は、まだ数枚傍らに置きっぱなしだった書類の上に腰を下ろす。どう見てもわざとだ。
「こら。」
「どうぜもう頭に入っているんでしょ。」
そう言って雲雀はディーノの膝に手を置くとそのまま軽く体重をかけてくる。仔猫が『構って』とちょっかいをかけてきているみたいで微笑ましい。その動作だけをとれば。
くしゃり。ディーノが手にしていたそれを思いきり掴み取られる。ついでに踏んづけていたそれも逆の手でくしゃり。
「あ、おい。」
「雑音ばかり。」
雲雀は奪ったそれを投げ捨て、ディーノに跨るようにして圧し掛かってくる。
重みを全く感じさせない。静かだけど無駄の無い、容赦も無いその動き。ディーノは抵抗もせず雲雀をただ見ていた。
「大人しいね。」
「騒がしいのがお好みか?」
「アナタらしくないって言ってるの。」
そう言いながらも雲雀は楽しそうだ。
「ここは静かでいいね。」
アナタと僕しかいない。
ふたりの声と息、布が擦れ合う音。
「よかった、オレは雑音じゃないんだな。」
「余計なコトをしなければね。」
笑うディーノに雲雀もまた笑みを刻む。
ワガママな獣。そう思う。
雲雀はディーノに、雲雀のコトだけを見るよう望んでいる。
それが不可能だと知っていて望んでいる。
いつだってディーノの目を耳を塞いでしまおうとしているのを知っていた。
「それじゃあお前の基準で言うとオレは、随分と余計なもので出来てるんだな。」
「そうだね。でもそれが何?」
とっくに選んでしまっている雲雀はどうにもならないと知りながら、目も耳も塞いでしまっている。綺麗で鋭利な瞳はディーノを中心に捉え、形の良い耳は余計な情報を汲み取ろうとしない。
「お前は、オレがお前を選べないって知ってるのにどうして、」
「選べないんじゃなくって選ばないんでしょ。」
「…恭弥。」
「不可能だって思っているのはアナタだけ。」
「オレは…お前も大事だけど他にも大事なもんがある。…知ってるだろ?お前だけを選ぶなんて出来ねぇ。」
出来ない、と。顔を俯かせると、雲雀は小さく嘆息したようだった。
「アナタが僕の前に現れたりしたのがいけないんだよ。」
「人のせいにすんのかよ。」
「だって僕は、アナタが会いに来なければアナタに興味なんて持たなかったし、そもそも認識してさえいなかった。知らなければ僕はずっとあのままでいられた。」
目を耳を塞いだのはアナタのせいだと雲雀が責める。
「…そっちの方が幸せだったか?」
「そうだね。」
即答が悲しい。
ディーノだって随分と雲雀に心を傾けているのだ。ただ、雲雀の求めるようにだけはなれないだけで。
少年はディーノを責めながらも離れようとはしない。
いっそ捨ててくれたらディーノも時間と共に心を落ち着かせるコトも出来るのに、それすらも許されない。それが現実。ディーノの前に常に横たわっている残酷さだった。
「だけど僕はアナタを見つけてしまったし、アナタの体温が心地いいのも甘い香りがするのも知ってる。感触も声も。深くに入り込んでしまってる。」
アナタだってそうでしょ。
唇を添えるような口付けをしながら雲雀が拗ねたように言う。
「……それ、は、お前がいけないんだろ。」
「そうかもね。」
仕返しとばかりにディーノが唇を尖らせると、雲雀は少し機嫌を上に向けたようだった。
文句や不満は山ほどあれど離れられないのはお互い様。ディーノにも雲雀にもそれがわかっていた。だから雲雀はディーノの私室に潜り込むし、ディーノはディーノで一度も追い返したコトが無い。
逢いたいと想う気持ちは一緒だった。
ただ雲雀が雑音だと言うモノが、ディーノにとっては決して雑音ではない。
オレたちの気持ちで決定的な違いと言ったらそこだろうな。ディーノはそう思っている。
「アナタの目が僕しか映さなくて、アナタの耳が僕の声しか拾わなければ良かったのに。」
それこそ不可能だ。
ディーノは緩く笑うしか出来ない。雲雀が本気でそう言ってるのがわかっているから。
逆に考えてみて。雲雀の目に耳に、自分以外の誰かが深く強く刻まれるコトが今後あったとして。
ディーノははたして雲雀と同じコトを思えるか。考えるコトが出来るか。
「……オレは、意気地なしだから…なぁ。」
お前と違って。
そう言うディーノに雲雀は小馬鹿にしたように笑って、
「違うよ。へなちょこでしょ。」
僕がいないとアナタ、てんでダメだものね。
首筋に巻きつけられる雲雀の腕を振り解こうとは思えない。
「甘えさせてくれるってコトか?」
「別にいいけど。お礼は倍返しが鉄則だよ。」
「それは怖いな。」
「いつもよりサービスしてくれればいいだけ。」
悪戯っ子のように目を細める様は年相応で常よりずっと幼い。
雲雀が思うよりもずっと、自分たちには距離があるのだ、と。ディーノはいつだって感じている。
口にしないのは雲雀のためを思ってではなく結局ディーノだって失うのが怖いからだ。
そのディーノの恐怖だけは敏感に感じ取っている、雲雀はそういう少年だった。
「ふたりきりの時は他のコトなんて考えないでよ。」
ああ。
そう頷きながらもディーノの頭には雲雀の言う『雑音』が必ずどこかにあったし、いつでも意識のほんの一欠けらだけでも外に向いてしまっている。どうしようもない。
「…お前に飽きられたら辛いなぁ。」
「嘘つき。」
雲雀は、ディーノが早く自分を捨てるように仕向けていると思い込んでいるがそんなコトはない。
捨ててくれたら、と。思う気持ちにだって嘘は無い。嘘は無いのだけれど。
「アナタが僕に骨抜きになるまではとりあえずそんなコトは無いよ。」
だから覚悟しておいて。
雲雀が不敵に笑うからディーノは泣きたくなった。
ディーノが例えば雲雀に骨抜きになったとしたら飽きるかもしれないと言うその言葉は、彼の中での大前提で『それは有り得ない』から成り立っている。
雲雀の望むようには想うコトは出来ないけれど、もうずっと前からディーノはこの少年に骨抜きにされているのだ。少年の中の大前提は当の昔に崩れ去っていて、だからディーノはいつだって怖い。
「お前だけを見るようになったら、お前はオレに興味なんかなくすんだろうな。」
「―――…そうだね。」
それだけが希望だと言ったら雲雀の目も覚めるのだろうか。
雲雀の望むように愛すコトが出来ないからずっと嫌われず飽きられるコトもないなんてどういう悪循環なのだろう。
なんて悲しい。
「…悲しいな。」
「寂しいって言いなよ。」
「――…『寂しい』?」
「そう。」
よく出来ましたと言わんばかりにディーノの額に口付けてくる。
堪らない。
雲雀のディーノを想う気持ちはとてもまっすぐで酷く純粋だった。でも少年は気づかない。気づいていない。雲雀は精一杯背伸びをして大人になろうとしていたから。汚れて擦れて。
追いつこうと、ディーノに少しでも近づこうと。
「…………好きだ、お前が。恭弥。」
「言葉まで甘いんだね、アナタは。」
ディーノの告白など一切聞こうともせず、結局雲雀も塞ぎ続けているのかもしれない。
体を交えても言葉を交わしても後には何も残らない。ディーノには未来の崩れる悲しい音しか聞こえなかったし、雲雀はディーノ以外を見ようとしなかった。

だったら目を閉じて、耳を塞ぐしか出来ない。

雲雀の冷たい耳に口付けながら、ディーノはもう一度好きだと呟いた。
嘘つきと言った雲雀は頼りない子供にしか見えないのに。
うまく愛されてあげるコトの出来ない滑稽な自分が雲雀の瞳に映りこんでいる。


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6. 甘い唇

何だかとても甘い匂いがしたので、もしかしたらとても甘い味がするのではないかと思ったのだ。
だから舐めてみた。それだけのコト。
「………あ?」
欠伸をしている途中で半端に口を開けたままの間抜け顔のディーノが、更に間の抜けた声を上げるのを雲雀は酷く冷静に観察していた。
どうと言うコトはない。
いつも通りのあほっ面にへなちょこな反応だった。
「…オカシイね。」
「は?…え?ってかお前、何だ?いきなり。」
今頃になって漸く状況を理解したのかディーノが目を白黒させている。
いつもだったらそこを思いきりつついてネチネチといたぶったりもするのだが(ある種の生き甲斐である)、今の雲雀はそれを実行するという考えすら思いつかないでいた。
「アナタ、いつもと違うものでも食べたりした?」
「いや。朝食はいつも通りだったし昼食はまだ――…って、いや、そうじゃなくてだな。」
「それじゃあ違う香水とか。」
「いや、それも無い…んだけど、だからっ、そうじゃないだろうが。お前何でいきなり人の口舐めて、」
「だって甘い匂いがしたんだもの、アナタ。」
甘くておいしそうな匂いが。
だから思わず舐めた。
ディーノが欠伸をしている最中という、何とも間抜けなタイミングだったにも関わらず、だ。
「甘い匂いしたから、って…お前なぁ…その理論で行くとケーキ屋とか入ったら片っ端から舐めまくるってコトになんねぇか?」
「ならないよ。馬鹿なコト言わないでくれる。」
「あ、あのな〜。」
ディーノは呆れてガックリと項垂れてしまっている。
しかし今の雲雀にはそれも関係ない。兎に角納得がいかないのだ。
「ねぇ、何で甘い匂いがするの。」
「そもそもそんな匂いしてないだろ。」
クンクンと袖やらあちこち嗅いでるディーノはさながら大型犬のようだ、とか何とか遠くで思いながらも雲雀は思案し続けている。ディーノのコトを考えている。
柔らかい唇だった。
「何の匂い?」
「そう言われてもなぁ、別段いつもと変わったコトもしてねぇし…。」
いやだからそうじゃなくて、とまだ文句を言っているディーノも無視。
今も雲雀は感じている。とても甘くておいしそうな、ひどくそそられる匂いだ。特別甘いものが好きというわけでもない雲雀が、深く考えるよりも先に行動に移した程に。
「不思議だね。」
「…お前がな。」
反論も疲れたような目の前の男に雲雀は再度詰め寄る。
「…甘い匂いがする。」
「……どっからだよ。」
「アナタから。」
「オレの、どの辺りから。」
「――…アナタから。」
ひたりと飴色の瞳を見つめて、ああ、この人、目の中まで甘そうだ。雲雀はそんなコトを思う。
甘い匂いがすると舐めあげた唇は実際のところ甘い味などしなく、ただただ柔らかかった。
あれがこの男の味なのだろうか。
「だからってまず、どうして口を舐めるかな、お前は。」
だって特別甘そうに見えたから。
そう思ったが口にはせず、ディーノの唇をまた舌先でつつく。
嗅覚も味覚も狂ってしまっているのだろうか。
相変わらずディーノからは甘くていい香りがしていて、しかし触れる唇からはそれに伴うような味は伝わってこない。
ただ雲雀の舌先に、雲雀の脳に、雲雀の胸に、…雲雀の全身に、甘い痺れのようなものを運び続ける。それだけだった。
「…恭弥。」
吐息まで甘いなんて、本当にこの男はどうなっているのだろうか。
雲雀はそんなコトを考えながら噛み合わせを深くしていく。
甘い痺れが感染したようにディーノが緩く震えた。
…ああ、もう。とにかくこの男をひとつ残らず食べてしまおう。そうすれば雲雀の答えも自ずと見つかるに違いないのだから。


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7. 密やかな項(うなじ)

逃げをうとうとするディーノの白いうなじに雲雀は噛み付いた。
いつもは蜂蜜色の髪にちらちら隠れて全ては見えないそこを噛み付けば、ディーノの体がヒクリと震える。ついでに雲雀を受け入れているそこも震えた。
「うっ、噛むな、よ。」
「アナタが逃げようとするからでしょ。」
噛むなと言われたので代わりにべろりと舐め上げた。
ディーノが思わず、と言った様子で仰け反る。いい反応だ。
くしゃくしゃになったシーツの波で、突き上げられるそれに堪え切れないのかどうしてもディーノは上へ上へと移動していく。雲雀が上から背後から押さえつけても、無意識なのだろう。じりじりと上に行ってこれでは頭をぶつけそうだ。
「大人、なんでしょ。これくらい我慢、したら。」
「んっ、しょう、がねぇ…だろ、…んん、ヘンに、なっちまっ…あっ。」
ディーノの前に手を回す。
雲雀の下にいる時のこの大人は、いつもより随分と素直で聞き分けが良かった。
「でも、はしたないね。」
シーツに擦り付けていたのだろう。布地はいやらしく濡れていた。
「…っまえが、それ、言う…か、よ。」
「僕はまだコドモだから、いいんだよ。」
乱暴に荒らしていく。
ディーノはもうどうしようもないと言うように首を振っている。
「ん、…僕に夢中だね、アナタ。」
「…る、さい。」
否定しないのだから、本当にこの時のディーノはいい。
いつもこれだけ素直で開けっ広げなら、雲雀とてこんなに乱暴にならないのに。
「…ね、まだ成長期だから、これからもっとずっと大きくなるよ…?アナタのここ、大丈夫、かな。」
はぁ、と熱い息を吐き出しながら。
「う、あ。」
「でも、徐々に慣らしていってるって思えば…ん、いいよね。ねぇ、センセ…。」
ディーノが耳元やうなじに弱いと知っていてわざとそこらに沢山口付ける。
しっとりと汗ばんだディーノから甘い匂いが密やかに立ち込めている。こうやって他の人間も虜にしてきたのだろうか。それでも構わないけどね。雲雀はうっとりと笑う。
とりあえず今ディーノは雲雀のものだったし、手に入れたとなれば手放す気は無い。
ディーノのうなじが滑らかで甘いコトを知っている輩が他にいても、雲雀がそれを誰よりも一番よく知っていればいいだけの話。
「僕無しじゃ生きられなくしてあげる。」
早くこの人の髪が伸びて、僕以外がここを見れなくなればいいのに。
目下のところの雲雀の願いはそんなところだ。





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8. 痩せた鎖骨

珍しく雲雀が体調を崩した。
季節の移り変わりの境目だったからだろうか。昨日暑かったと思えば今日は肌寒い。昼間暖かいと思ったら夜は冷える。そういった気候が続いていたから。
「大丈夫か。」
ディーノが問いかければうざったそうに雲雀が睨んでくる。
言われなくてもわかる。邪魔だ。どっか行け。早く消えろetc...そういった悪意ばかりだ。
冗談でも自ずから勝手に看病をしているディーノを、歓迎したり労おうとしたりするはずがない。
ディーノは特別、雲雀に嫌われていたので。
これが例えば…この子供が少しでも喜ぶかもしれないと思いつくのは元家庭教師の赤ん坊くらいであったが…アイツだったら少なくとも言うことは聞いたんだろうな、と。ディーノは窓の外を見やる。
いい天気だった。
秋晴れの穏やかな風が窓から吹き込んでくる。
一昨日までは沢山雨が降っていたのになぁ、と。誰にともなく呟いた。
この部屋にはディーノと雲雀しか存在していなく、雲雀がディーノの話を聞くとは思っていなかったから自然と独り言になる。大体にしていつものコトだったのでディーノは最早気にしていない。
雲雀に目をやると、ディーノなど視界の端にも入れたくないと言わんばかりに完全にそっぽを向いていた。綺麗なベッドに寝転がっている様は気位の高い猫そのものだった。
「…腹減らないか。」
「イラナイ。」
「喉は?」
「さあね。」
とりつく島も無い。
胸は痛むがそんなコトよりも今は雲雀の容態だ。
かなり我慢をして無茶をしていたのか、最も嫌悪しているであろうディーノの前で倒れた程に思わしくない。…その件で更にディーノへの悪意を募らせたコトだろう。
少しでも弱みを見せたくないのがこの子供の性だったから。
「なぁ、俺がここにいんのが嫌なのはわかってるけど、今ちょうど部下は出払っててな。お前の家でも知り合いでも―――」
「黙ってて。」
「……。」
どうしようもない。
無言の圧力で出て行けと言われているのもわかっている。
それでもディーノは雲雀を放っておけなかったし、嫌われているのがわかっていても構わずにはいられなかった。
…出会った頃よりも少しだけ肉の落ちた体のラインを見る。
ディーノに凄まじい殺気を浴びせながらトンファーを繰り出したと思ったら、目の前で倒れこんだ雲雀。驚いて身を起こさせると熱を宿し、存外にほっそりとした肩筋にギクリとした。
そうして目に入った痩せた鎖骨がディーノの脳裏に焼きついている。
気づかなかった。
…気づけなかった。
ディーノは雲雀のコトなど本当に上辺の、見聞きしたりしてわかる程度の、ごくごく表層の部分しか知らなかった。その表層すら一部なのだろう。
それ程にふたりの関係は希薄で遠い。
今回それを改めて突きつけられた。
「…恭弥。」
「うるさいって言ったでしょ。」
「お前が、俺を鬱陶しいと思ってんの、わかってるけど。」
それでも放っておけないし、心配なんだ。
言えば雲雀が不愉快そうに鼻を鳴らしながら笑った。
「馬鹿だね。」
「……。」
「本当に煩わしい。」
それでもいつもより覇気が無い。それがディーノの胸を深く抉る。
こうまで弱っても尚、ディーノへの敵意や悪意だけは変わらない。
休ませてやるコトすら出来ないのだ。
「出て行ってよ。」
「………ああ。」
どうあってもそれしか出来ないだろうコトは最初からわかっていた。
ドクドクと胸が酷く痛む。
雲雀からはいつだってキツイ言葉しか浴びせられなかったし、目線も態度もどこをとってもディーノへの感情に負のそれ以外感じ取れなかった。
それでもディーノはこの子供がどうしても憎めなかったし嫌いにもなれないでいた。
決して靡きもしない恐ろしく気位の高い雲雀のその潔癖さには、むしろ憧憬すら覚える。
「……おやすみ、恭弥。」
緩く笑みを刻んで顔を俯かせた。
きっと今自分は酷く傷ついて情けない顔をしているだろうから。
雲雀がこっちを見るコトなどないとわかっていても隠さずにはいられなかった。
足音を出来るだけ立てないようにして、そっと静かに退室した。
もうこの部屋で雲雀に会うコトも無いだろう。



季節がひとつ巡った。
本日ディーノは日本の地へ降り立っていた。仕事絡みだったが思いのほかあっさりと済んでしまい、特別仕事も残してこなかったし、何より久々に来たのでこのまま帰るのも勿体無い
秋は好きだ。
しかしそれと同時に雲雀とある種決別したあの日を思い出して辛かったりもする。
あれ以来全く雲雀と連絡も取っていなかった。
もう自分のコトは忘れただろうか。
…忘れていてくれればいい。
雲雀の頭の優秀さや嫌悪する相手への執着(咬み殺すという意味での)は並々ならぬものがあったから、それは望み薄だろうが。
ディーノはポケットに突っ込んでいた携帯を手にする。
雲雀は兎も角としても元家庭教師や弟弟子とその仲間には会いたいし、会えるだろうから。
基本的にディーノは人間が好きだったし、嫌いたくは無いと思っている。
どうしようもなく恨んだり憎んだりする、しなければならない相手だって勿論世の中には存在していたが、元々は穏やかな質だ。
まだまだ経験不足なのはわかっていたし、感情全てを緩やかに受け流すことはまだ出来なかったが、それなりに年は重ねてきたからどうしようもないコトをある程度押し殺す技量は身に着けていた。あの元家庭教師のおかげだ。
携帯のボタンをゆったりと押していく。
夏から秋に変わったばかりの季節の移り目。
今日は比較的温暖だった。過ごしやすい。
平日の昼過ぎだったので恐らく彼らはまだ授業中だろう。
学校が終わっても何かしら用事があるかもしれないが、ツナの家で待たせてもらうのも悪くない。あの家は温かくてディーノのお気に入りの場所のひとつだった。
打った文章をさらりと見直しておかしな点が無いかを確認した後、そっと送信した。
学校に足を向けても良かったが、雲雀にもし会って不快な思いをさせるのも躊躇われる。
姿だけでも見たいという気持ちは勿論あったけれど、あの少年に気づかれない自信は無い。
それならディーノが我慢して、ただ彼のことを思う方がずっと平和で合理的だった。
…雲雀はあの後自分の足でどこかに帰っていったのを部下から聞いた。
ツナやリボーンからの連絡で何事も無かったように学校に来ているとも聞いていたので、その点では安心している。無理をする少年であったが、ディーノが思うよりもずっとずっと強いのだろう。
心配なんていらないとはわかっていた。
それでも雲雀を無視出来なかったのは、ディーノがあの子供に好意を持っていたからだったし、大事にしたかったからだ。
もしかしたらそういった感情も透けて見えて、それすらも上乗せさせてあの嫌悪だったのかもしれない。酷く鼻の利く少年だったので。
(アイツ、何であんなに痩せていたんだろうな。)
誰に聞いても雲雀は雲雀で変わりなかったと言っていた。
同時に過保護すぎるんじゃないかとも。
ディーノは苦笑して、そうだな、としか言えなかった。
…押し付けの愛情がどんなに煩わしかっただろうか。
「元気かな、恭弥。」
それでも最後に見たのが力無く横になっている様だったので、どうしてもその印象が根強くてそんなコトを考えてしまう。口に出てしまっても周りには誰もいないのがわかっていたし、雲雀には届かないのもわかっていたから許されるだろう。これくらいは許してほしい。
痩せた肩口に、首筋に、鎖骨に、口付けを落としたかったなんて言ったら、跡形も無く殺されてしまうだろうか。
手にした携帯が震えた。ハッとして画面を見ると電話がかかってきていた。
休み時間だろうか。ツナからだろうなと心構えも無しに出て、
「ツナか、今俺、」
「アナタは誰からの着信かも確かめないで出るの。」
「―――…きょ、」
思わず携帯が手から滑り落ちた。
かしゃんとアスファルトとの接触の音がしてから数瞬、我に帰って慌てて拾う。
「…も、しもし。」
「……何してるの。」
「あ、いや、その、」
あんまりにも驚いて。
言葉がいまいち形にならない。
何なんだろうか。これは。どうしたのだろうか。何が起こっているのだろうか。
「…恭、弥…。」
「そう。残念ながらアナタの大事な『ツナ』ではないけれどね。」
どこか腹立たしげに雲雀がそんなコトを言う。
耳元で聞こえる声は間違いなく雲雀恭弥その者であったが、どうしても違和感ばかりがディーノの中に渦巻いている。
何で雲雀から電話がかかってきているのだろう。そもそも番号すらあの少年は『イラナイ』と切り捨てた記憶があるのに。
「……ひさしぶりだな。」
声が震えないよう細心の注意を払って、とりあえず当たり障りの無い言葉を吐く。
…雲雀は嘲笑ったようだった。
「そうだね、アナタが僕を捨ててから、1年くらいかな。」
「――…なに、」
「元気だった?生意気で我が儘で自分勝手で何一つ言うコトも聞かない鬱陶しい生徒から離れられて。」
「…なに、言ってる、んだ。」
「何か違った?」
雲雀の口調はどこまでも静かで穏やかだったが、しかし同時に底知れぬ鋭利さがあった。
「おまえ、だって…。」
「アナタのおかげで風紀の取締りにも熱が入って仕方なかったよ、ありがとう。」
「…きょうや。」
「聞いたよ。何度か日本にも来ていたんだって?僕に一度も連絡寄越さなかったなんて、甘い顔して酷いね。どれだけ薄情なの。」
「……どうし、たんだ。」
これでは、
「これもアナタの思惑通りなのかな。ねぇ、センセイ。」
これではまるで、
「何、だよ、ソレ。」
「惚けるの?それとも無意識?…わお、そうだとしたらアナタ、生まれながらの性悪だよ。」

これではまるで雲雀の方がディーノを好いていたようではないか。

「赤ん坊に聞いたよ。『アイツは完璧に仕事をこなして行ったな』って。…仕事だって、ずっとアナタ割り切っていたんだ?だからいつでも優しくて、」
「恭弥、俺は、」
「いつでも甘い顔をしていたくせに、」
あっさり僕を捨てられたんだ?
「ちがう…違うだろ、ソレ。だってお前、お前は俺のコトっ…。」
「今日は何のお仕事?また、誰かを誑し込みにでも来たの。」
雲雀の言葉が冷たくディーノに突き刺さる。突き刺さった傍から傷口が抉られていく。
ディーノはここに来て漸く、雲雀の中の燃え滾るほどに冷たい闇に己が晒されているのに気がついた。
「許さないから。」
アナタを、許さない。
「恭弥、違う…俺は、お前が、」
「カワイソウに。まだそんなコト言わなくちゃいけないの。…アナタ、僕が求めたら足も開いた?」
ディーノは自分の手が震えているのに気がついた。
怒りではない。これは、
「「僕から逃げようなんて、そんなの絶対に許さない。」」
耳元と背後から同じ台詞が聞こえた。
ディーノは振り向けない。
足も震えていた。それだけではない。全身がブルブルと震えて止まらない。
ディーノが動けないでいると耳元にあった携帯を叩き落された。
「ひさしぶりだね。」
かしゃんとアスファルトに叩き付けられるのをディーノは愕然と見ていた。
「元気だった?」
雲雀はゆったりとディーノの目前に回りこんでくる。
…笑みを刻んでいるはずなのに、抑えきれない恐ろしい熱がそこにあった。
ディーノは今、この少年に、確かな恐怖を感じていた。
「怖いの?震えてる…あの頃みたいに笑ってみたら?『恭弥』って。」
「お前が…お前の方が、俺を、いらないって。そういうものだったんじゃ、ないのか。」
「………どうしてあの時だけアナタ、いつもなら僕の言うコトなんて聞かないで強引なのに、あっさり引き下がったの。」
とっくにディーノの雲雀への役目は終わっていたのに、それでも放っておけなかったし、時間が許す限りは傍にいた。いようとした。…それを雲雀はずっと疎ましいと思っていたのでは無かったか。
「――…お前の中にある、俺を見るのが、辛くなったから。俺が少しだけ我慢すれば誰も、」
かしゃん。
雲雀は自分の携帯も地面に叩きつけた。酷く無機質な動きだった。
「誰も傷つかないで済むって?」
今にもディーノを殺してやると言わんばかりに雲雀がねめつける。
ディーノの目に映る雲雀はあの時のように、壊れそうな程ほっそりしていなかった。
握り締めた拳が怒りのためか震えている。
「あれだけ人の心を乱しておいて、アナタ、そんな自分勝手に完結させようとしたの。」
「…っ、だったら、どうすりゃよかったっつーんだっ。」
何で今頃そんなコトを言うのだろう。
雲雀はディーノが酷いとばかり言うが、ディーノは雲雀の方が酷いと思う。
だってあの頃の雲雀は本当に、ディーノが煩わしくて仕方が無い、そういうスタンスしか取っていなかったのだ。あれ以上嫌われるくらいだったら、少しの棘を心に残してでも諦めるのが最善だと思える程に。
「アナタはいつもそう。下手な大人の拘りと括りの中で、勝手に決め付けて、自分だけが傷ついたみたいな顔して。」
「勝手じゃねぇだろっ。お前が言ったんじゃねぇか、煩わしいって!出て行けって!それでどうしていつまでも平静でいられるってんだっ…俺だって人間だ!キツイ言葉、大事にしたいと思うヤツに吐かれまくって、ずっと我慢できるわけねぇだろ…!」
「僕がこういう性格なのわかっていたんでしょ。」
「頭でわかってても感情はそううまく切り替えられると思うか…?お前に何か言われる度に傷つくのはもう嫌だ…俺にだって、俺だって、そういうっ…。」
どこで間違えたのだろうか。
ディーノは確かに雲雀に好意を抱いていたが、今となっては触れ合うのが怖くて仕方ない。
だからもう誰にも触れさせないようにそっと蓋をしておいたというのに。
「アナタの都合なんて知らない。ただ責任を取れって言ってるの。」
…なのに、どうしてそれを、雲雀自身によって抉じ開けられなければならないのか。
「ねぇ、センセイ。アナタを見るとどうしても疼くよ。殺意かな。それとも違うモノなのかな。僕にはわからないよ。教えてくれない。」
「殺意だろ。他にあるのか。お前の中の俺に。」
だったらせめて止めを刺してはくれないだろうか。
臆病と笑われても自分勝手と罵られても、ディーノはもう雲雀に傷口を抉られたくなかった。
「…………あの時僕は、アナタが口付けてくるのかと思っていたよ。」
「………。」
気づいていたのなら、どうして、どうして。
「だからこれは仕返し。アナタが僕の中を荒らしていった分、僕がアナタを荒らしてあげる。」
酷く傷ついた顔をした雲雀が、ディーノに唇を寄せてきた。
触れ合わせるだけのそれは感触だけを残して、しかし何も繋がらない。

あの時、傷つくのを躊躇わずに雲雀の痩せた鎖骨に口付けを落としていたら、違う未来があったのだろうか。
今となってはそれもわからない。
互いが互いを傷つけあって壊れるまで、どうにも終わるようには思えなかった。
ディーノはここまで来ても雲雀が好きだったし、雲雀はディーノを許さないと言っていた。

ディーノも雲雀も、どうしてうまく愛せないのだろうかと先の見えない迷路で立ち尽くしている。


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9. 華奢な指

老人の冷え枯れた指先に、とてもとても大切なもののようにいとおしげに、その唇を寄せる様をガラス越しに見た。
暖かい午後の光に照らされた優しい口付けだった。
老人は笑い、青年もまた笑う。
何事か老人が呟けば青年がこれまた大切そうに老人の手を撫でる。
誰にも侵すコトの出来ない箱庭の中の聖域がそこにあった。
青年と老人だけが入るコトを許された、しかし触れればすぐに崩れてしまいそうなガラス細工にも似たその光景。

雲雀はそれを瞬きもせずに見つめていた。


恭弥、と。呼び止める様は如何にも容易い。
今は気軽に名前を呼ばれたい気分ではなかったので雲雀は無視をした。
振り向かなくても戸惑っているであろう表情は想像出来る。そうしてすぐに後を追ってくるコトも。
もう一度先程よりも強く名前を呼ばれたがこれも無視。ついてくるコトもわかっていたので振り返りもせずに廊下の突き当たりの部屋に入った。
「恭弥ってば。」
無視すんなよと言いながらディーノもその体を滑り込ませてくる。
しかしそれも無視。
兎に角ディーノの全てが癇に障った。
「ついてこないでよ。」
「……いや、ここ、俺の部屋なんだが…。」
そんなコトもどうでもいい。
この屋敷で雲雀がキチンと知っている部屋がここだけだった、それだけの話だ。
雲雀は乱暴に上着をディーノに投げ捨てると寝室へ足を進めた。
カーテンが開け放たれた部屋は穏やかな光を外から招き入れていて、どう見ても昼寝にもってこいの環境だった。ので、このまま寝てしまおうと靴も乱暴に脱ぎ捨てるとベッドに寝転がる。
「…恭弥。」
小さく囁かれた名前は困惑で溢れている。
同じく寝室に入ってきたディーノは軽やかな動作で雲雀の元へ足を向けた。
雲雀はそれらをうつ伏せた視界の隅で確認した後に、寝返りを打って完全にそっぽを向く。
「何、拗ねてんだよ。」
「気のせいでしょ。」
ずっぱり切り捨てる。
雲雀はただ眠りたいだけだ。この部屋に来てこのベッドに寝転がったのも、ただ寝心地のいい寝床が他にどこにあるのか知らないから。単なる消去法なのだ、
ただそれだけのコト。
今さっきの思い付きではない。…そんなコトはない。
ディーノが息を吐く気配がした。諦めのような困惑のような馬鹿にしたような。
何なんだろうかこの男は。
雲雀はもう酷く腹立たしくてどうしようもなかった。
「恭弥。」
(年上がタイプとかそういうわけ?)
…馬鹿馬鹿しい。
「服が皺になるぞ。」
「別に。ここ、どうせ着替えあるじゃない。」
そうだけど、と。ディーノは言葉を詰まらせる。
そういう風に雲雀に翻弄されてワタワタとしている様が似合っていると言うのにこの男は。
下手に容姿が整っているせいだろうか。妙なコトさえしでかさなければ確かに絵になる。
しかしそれが何だと言うのか。
「……機嫌直せよ。」
ふわりと頭を撫でられる感触がしたと思えば、こめかみの辺りに柔らかな感触。
そんなものが欲しいわけじゃない。
「脱いで。」
「あ?」
「脱ぎなよ、脱いでこっちに来て。」
そうしたら許してあげる。
少しだけ首を傾けて雲雀は目線だけディーノにやる。
雲雀の上着を左手で抱えたまま目を見開いていた。いい様だ。
だからこの男にはこういうのがお似合いなのだ。本当に。
少しだけ機嫌を上に向けた雲雀が、どうするのと笑いかける。
「…許す、って…俺、お前に何かしたか?」
「別に。」
ギュッとディーノが眉を顰める。からかわれていると思っているのだろう。
雲雀は体を仰向けにさせるとディーノの袖を軽く指先で引っ張った。
「簡単じゃない。脱いで僕を楽しませるだけだよ。」
早くこの男を取り巻く全てを取っ払った、ありのままの、どうしようもなく役に立たない…雲雀だけが全てだというような、惨めったらしい姿を見たい。
あんな風に穏やかな揺り篭の中で、幸せそうに微笑んでいるディーノなんて似合わない。
そんなものは知らない。
「どうするの。」
袖を引いていた指先を滑らせて、今度はディーノの指を手に取る。
筋っぽくて硬くて長い、男の…大人の男の指だ。
子供のように小さくて柔らかくも無く、女のように繊細で華奢な指でもない。乱暴に使い込まれて傷や肉刺の跡すらある、お世辞にも綺麗とは呼べない指。

それでも雲雀はそんなこの男の指が、世界で一番好きだった。

引き寄せたその指先に口付けを送る。
ディーノの手があからさまに大きく震えた。
ちら、と。雲雀が目線を上げると、酷く傷ついたような表情でこちらを凝視している男が目に映る。
唇だけでディーノは、見ていたのか、と静かに問う。声は空気を震わせるコトもなかったが、雲雀にはしっかりと届いた。
「何を。」
「……お前、だから機嫌悪かったのか。」
「さあ。」
言いながらディーノの爪を撫で摩る。
ディーノの手には力など入っていなく、だらりと、雲雀の為すがままだった。
この男の中には沢山の『特別』が存在していて、彼の家族だったり彼の故郷の住人だったり、彼の弟弟子とまたその家族、それに連なるもの。もっと掘り下げていけばそれこそ数え切れない程にあるのだろう。
勿論雲雀もその中に加えられている。
…しかしそれが何だと言うのだろう。
雲雀の中にもそういったものはある。並盛であったり秩序であったり強さであったり。
でも雲雀はその中に決して『ディーノ』を加えたりなどしない。
「つまらない。暇なんだけど。アナタのようにオイソガシイわけじゃないから。」
「…だったら何でここにいるんだ。」
「アナタがいるから。」
くしゃりとディーノの顔が歪む。
まるで子供のようだ。大の大人がみっともないね、と。しかし雲雀は酷く満ち足りた気持ちだった。
「お前、そんなに、」
「どうするの。」
ディーノの言葉を塞ぐように先程と同じ言葉を言い放つ。
泣き出しそうなディーノは本当にただの、全てを手に入れたようで何も持っていない、誰かに手を引かれなければ歩けない、無力な幼子のようだった。
だから雲雀はその手を引いてやる。
この男の手を引くものは自分だけでいいのだから。
「アナタが脱がないのなら僕が脱がしてあげるけど。」
ディーノはもう何も言わなかった。
清潔なベッドの上で雲雀の手を捜して震えればいい。何も思い通りにならなくて雲雀の腕の中で泣けばいい。精一杯もがいて雲雀だけのものになればいい。
「ねぇ、センセイ。」

雲雀がディーノの美しくない指先を愛するように
ディーノもあの老人の冷え枯れた指先を愛しているのだろうか。
同じように未来が見えなくても、雲雀の様に奪おうとするのではなく
慈しむように口付けを落とすだけなのだろうか。

そういう風に愛されたいなんて思いたくも無い、と。雲雀はディーノの指を噛む。


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10. 広い背中

本当にコイツ大きくなったなぁ。
いや、ディーノの時間軸で言えば『大きくなるなぁ』になるのだろうか。
今ディーノの傍らには大人の男に成長を遂げた雲雀が寛いでいる。気だるげに羽織を軽く肩にかけているだけと言う、少しばかり目のやり場に困る状態で。
肩膝を立て、そこに頬杖をつきながら雲雀が笑う。
「何、そんなに見つめてきて。」
「いや…服とか着ねぇのかって思ってな。」
対するディーノは黒のインナーにゆったりとしたズボン。乱れもない普段着の状態だった。
布団の上に寝転がってるわけにもいかないので雲雀と同じようにゆるりと座っている。
微妙におかしな光景だが何てコトはない。
ディーノは10年後に飛ばされたのだ。
飛ばされたのだが、しかしこれが最初というわけではない。今までに数度、こうして10年後の雲雀と会っているのでどうにも若干の慣れが出来てしまっている。
そのため10年後に飛ばされて、かつ大人の雲雀がそこにいるという構図も今やもうあまり驚かなくなってしまったのだ。
……それが例えば明らかに情事の後だったり、今から何か手を出そうとしてる雰囲気であったりしても、だ。
「必要ないよ。10年後のアナタが帰ってきたら、まだ沢山可愛がってあげるんだから。」
「………。」
イヤラシイ笑みを浮かべている。
と言っても下品な笑みというわけではなく、壮絶な色香を放ってこれ見よがしにセクシャルに笑っている。自分が相手にどう見られてるのかをわかっていて、その上でわざと煽る様に。
ディーノの知る雲雀は当然こんな表情をしない。…まだない、と言った方がいいのだろうか。
「アナタが僕をやらしくしたんだよ。」
「…人のせいかよ。」
「だってアナタ以外としたコトないし。」
雲雀の息がまだ少しだけ荒い。
酷く冷静なようでまだ内に熱が燻っているのが知れた。
興奮を抑えている。
「――…3週間ぶり。」
雲雀は頬杖をついていた手でくしゃりと自らの髪をかきあげ、そのまま膝に頬を乗せた。
「アナタと、こうしてやらしいコトするの。」
先程とは逆の手でシーツの上を撫でている。部屋は電気がつけられていて明るく、シーツの上の残滓…どちらとも知れない体液が染み込んでいる様がよく見えた。
「強引にでも誘わないとアナタ、ばたばた走り回ってて捕まらないから。」
今回ももしかしたら誘拐紛いなのだろうか。
何度かそういう風に…彼曰く『強引に誘ってる』と聞いたコトがある。
そんなに情熱的に求められていると思うと悪い気はしない。しないけれど、しかし今のディーノがよく知る方の雲雀にはそんな兆候など全く無いものだから、何と言うか信じられない気持ちの方が大きい。
「最後にした時以来、ずぅっと我慢していたから。」
「お前。他の人ととか、自分でしたりとか、しないのか。」
「アナタ以外とする気はないよ。」
さすがに自分ではする時もあるけど。
あっさりとそう言ってのける辺りが雲雀と言うか。
どうにもものすごく、アナタしかいないのだと。そう言われているようで落ち着かない。
「アナタはどうだか知らないけどね。」
「…恭弥。」
「――…早く僕に抱かれて。」
雲雀の声が低く掠れてる。
もぞりと小さく身動きをして、熱く息を吐き出して。
ああ、熱をやり過ごそうとしているんだな。そう思いながらもディーノは雲雀に手を差し出せない。
目の前にいる雲雀はもうすっかり男で、雄の目をしている。
それでも、どんなにきつくても雲雀は、彼の時間軸のディーノ以外に、本気で手を出そうとはしない。
だからここでディーノが手を差し伸べてはいけないのだ。
それは雲雀への…ここにいる雲雀も10年前の雲雀も含めて、それこそ全ての時間軸の雲雀に対する裏切りだと。
「…ごめんな。」
「何が。」
「もうそろそろ時間だろうから。」
「…別に。10年前のアナタと会うの嫌じゃないから。」
しかしもうディーノを見るコトすら辛いのか、雲雀はじっと目を瞑ってしまった。
「本当は、いつのアナタでも、僕のものにしたいんだけど。」
「……。」
「残念。」
はらり。雲雀の羽織が落ちた。
それを戻す気力も無いのか、ただぐったりとしている。
見える肩が、腕が、背中が、ディーノのまだ知らない10年を遠く、物語っていた。
(背中に口付けたい。)
純粋にそう思った。
あちこち見慣れない傷がついていても、雲雀はどこまでも美しかった。
「…恭弥。」
「アナタの知る僕は、何をしているのかな……早く…アナタみたいな人は早く抱き寄せてしまわないといけないのに。」
後悔のようだ、と。思った。
雲雀は何かをずっと急いでいる。そういう風に見えた。
まるで終わりを知っているかのような。
「……オレが抱き寄せるんじゃダメなのか。」
「ダメ。アナタは大人しく抱き寄せられて。」

僕だけに。

――…その言葉が薄れていく中で、ディーノは白煙と共にあるべき時間に戻った。
見覚えのある部屋はディーノの弟弟子の私室である。
ディーノがやれやれと息を吐くと目の前には10年後バズーカを放った子供が目を見開き、部屋の主が真っ赤な顔をしてこちらを見ていた。
…せめて、1枚でも服を身に着けていたよう祈る。

応接室のドアを軽く2度叩く。
返事は無かったが、拒絶も無かったので扉を開いた。
「…何。」
…雲雀がソファの隣にすらりと立っている。未だ成長途中の細身な肢体。
何だかどうしようもなく泣きたくなって、ディーノは顔を小さく伏せた。
(……ああ、恭弥だ。)
甘い顔もイヤラシイ表情も見せない、ストイックで冷たい、ディーノのよく知る雲雀だ。
「忙しそうだな。」
「当然でしょ。」
出来るだけゆっくりと慎重に距離を詰めた。
雲雀の手元には開いた本がある。目を通していた風ではあったが。しかし立ちながら読むと言うのもおかしい。
隣には座り心地の良いソファがあるのに。
「………何してたんだ?」
「アナタどこまで馬鹿なの。見てわからない?」
雲雀は本をパタン、と。驚くほどあっさり閉じて、ディーノに見せ付けるようにぶらつかせた。
――…ああ、そうだな。
何に頷いているのかも曖昧な返答をしようとして、しかしそれも適わない。
指先が、唇が、小さく震えてしまっている。作り笑いさえも浮かべられない。
「………何。」
雲雀が顔を顰めながら腹立たしげにディーノを睨んでいる。
それでも雲雀の捻くれた透明な部分が、ディーノには明け透けに見えてしまう。
『アナタみたいな人は早く抱き寄せてしまわないといけないのに。』
…それはこっちの台詞だ。
ディーノは両手で顔を覆った。
(…恭弥。)
こっちの台詞なのだ。
雲雀の、硬く冷たい態度の中で見せる小さな意地が、堪らなく胸を締め付ける。
ディーノを煩わしそうに睨みながらも、決して追い出そうとしない。
抱き寄せてしまいたいのはディーノの方だ。
こんな不器用にまっすぐに想われて、どうして何も感じずにいられようか。

向こうでは今頃雲雀を抱き寄せているのか、抱き寄せられているのか。
どちらでもいいから兎に角10年後の自分が、あの傷ついて美しくて広い背中に口付けていればいい。
ディーノは遠い未来に想いを馳せる。
まるで未来の雲雀に恋をしているかのように。

くしゃり。出来損ないの笑顔を浮かべるしかなかった。


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